昭和二年の金融恐慌のため、鈴木商店(戦前の財閥のひとつで豊年製油の親会社)は一敗地にまみれ整理を余儀なくされた。その結果、豊年製油の株式はすっかり台湾銀行の所有に帰してしまった。「杉山君、ぜひ適当な資本家を探して、これ(豊年製油株)を引き受けてくれるよう交渉してくれないか」と台湾銀行から再三頼まれた。日本の主な財閥にこの事業を引き受けてもらえないだろうかと依頼して回ったが、いずれも断られた。いよいよこれは自分自身の手で、全責任を負って立つより方法がないと思い、杉山個人が譲り受けることになった。
- 杉山金太郎 -
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事をなすは誠にあり。
あなたにとって最も人間的なこと、それは誰にも恥をかかせないことである。
私は豊年製油の経営を引き継いだのだけれど、工場はすべて台湾銀行に650万円のカタで担保に入っている。・・・
