西郷隆盛 西郷隆盛

西郷 隆盛(さいごう たかもり、旧字体: 西鄕隆盛、文政10年12月7日(1828年1月23日) – 明治10年(1877年)9月24日)は、日本の武士(薩摩藩士)、軍人、政治家。

薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男。名(諱)は元服時には隆永(たかなが)、のちに武雄、隆盛(たかもり)と改めた。

幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変えた。号は南洲(なんしゅう)。

隆盛は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父・吉兵衛の名を届けたため、それ以後は父の名を名乗ったためである。
一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門、大島吉之助などの変名も名乗った。

西郷家の初代は熊本から鹿児島に移り、鹿児島へ来てからの7代目が父・吉兵衛隆盛、8代目が吉之助隆盛である。

次弟は戊辰戦争(北越戦争・新潟県長岡市)で戦死した西郷吉二郎(隆廣)、三弟は明治政府の重鎮西郷従道(通称は信吾、号は竜庵)、四弟は西南戦争で戦死した西郷小兵衛(隆雄、隆武)。
大山巌(弥助)は従弟、川村純義(与十郎)も親戚である。

薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。

その後復帰するが、新藩主島津忠義の実父で事実上の最高権力者の島津久光と折り合わず、再び沖永良部島に流罪に遭う。

しかし、家老・小松清廉(帯刀)や大久保の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。

江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて、総攻撃を中止した(江戸無血開城)。

その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務し、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中には留守政府を主導した。

朝鮮との国交回復問題では朝鮮開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、一旦大使に任命されたが、帰国した大久保らと対立する。

明治6年(1873年)の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。

佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。

死後十数年を経て名誉を回復され、位階は正三位。功により、継嗣の寅太郎が侯爵となる。

『西郷隆盛』の名言・格言一覧(全23件)

西郷隆盛 およそ思慮は平生、黙座静思の際においてすべし。

西郷隆盛 租税を薄くして、民を裕(ゆたか)にするは、即ち国力を養成する也。

西郷隆盛 もうここらでよか

西郷隆盛 万民の上に位する者、己れを慎み、品行を正しくし、驕奢(きょうしゃ)を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して・・・

西郷隆盛 正論では革命をおこせない。革命をおこすものは僻論である。

西郷隆盛 徳に勤むる者は、これを求めずして、財自から生ず。

西郷隆盛 小人は己を利せんと欲し、君子は民を利せんと欲す。己を利する者は私、民を利する者は公なり。公なる者は栄・・・

西郷隆盛 誠篤ければ、たとい当時知る人無く共、後世必ず知己有るもの也。

西郷隆盛 世の中で、人からそしられたり誉められたりするといったことは、塵のように儚く消え去ってしまうものである・・・

西郷隆盛 世のすべての人からけなされても落ち込まず、すべての人から褒められてもうぬぼれるな。

西郷隆盛 事大小となく、正道を踏み至誠を推し、一事の詐謀を用うべからず。

西郷隆盛 人間がその知恵を働かせるということは、国家や社会のためである。だがそこには人間としての「道」がなけれ・・・

西郷隆盛 我が家の遺法、人知るや否や、児孫のために美田を買はず。

西郷隆盛 総じて人は己に勝つをもって成り、自ら愛するをもって敗るるぞ。よく古今の人物を見よ。事業を創起するする・・・

西郷隆盛 思い切ってやりなさい。責任は私がとる。

西郷隆盛 事に当たり、思慮の乏しきを憂うることなかれ。

西郷隆盛 功のあった人には禄を与えて、能力のある人には位を与えよ

西郷隆盛 志を貫くためには、玉となって砕けることを本懐とすべきであって、志を曲げて瓦となってまで、生きながらえ・・・

西郷隆盛 命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難(か・・・

西郷隆盛 己を尽くして人を咎めず。我が誠の足らざるを常にたずぬるべし。我を愛する心を以って人を愛せ。自己を許す・・・

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