勝海舟 勝海舟

幼名および通称は麟太郎(りんたろう)。諱は義邦 (よしくに)、明治維新後改名して安芳。これは幕末に武家官位である「安房守」を名乗ったことから勝 安房(かつ あわ)として知られていたため、維新後は「安房」を避けて同音(あん−ほう)の「安芳」に代えたもの。勝本人は「アホゥ」とも読めると言っている。海舟は号で、佐久間象山直筆の書、「海舟書屋」からとったものである。海舟という号は元は誰のものであったかは分からないという。父は旗本小普請組(41石)の勝小吉、母は信。幕末の剣客・男谷信友は従兄弟に当たる。家紋は丸に剣花菱。

10代の頃から島田虎之助に入門し剣術・禅を学び直心影流剣術の免許皆伝となる。16歳で家督を継ぎ、弘化2年(1845年)から永井青崖に蘭学を学んで赤坂田町に私塾「氷解塾」を開く。安政の改革で才能を見出され、長崎海軍伝習所に入所。万延元年(1860年)には咸臨丸で渡米し、帰国後に軍艦奉行並となり神戸海軍操練所を開設。戊辰戦争時には、幕府軍の軍事総裁となり、徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城無血開城を主張し実現。明治維新後は、参議、海軍卿、枢密顧問官を歴任し、伯爵に叙せられた。

李鴻章を始めとする清国の政治家を高く評価し、明治6年(1873年)には不和だった福澤諭吉らの明六社へ参加、興亜会(亜細亜協会)を支援。また足尾銅山鉱毒事件の田中正造とも交友があり、哲学館(現:東洋大学)や専修学校(現:専修大学)の繁栄にも尽力し、専修学校に「律は甲乙の科を増し、以て澆俗を正す。礼は升降の制を崇め、以て頽風を極(と)む」という有名な言葉を贈って激励・鼓舞した。

『勝海舟』の名言・格言一覧(全31件)

勝海舟 内閣からもつまはじきにされ、国民からも恨まれるかもしれない。朝鮮人やロシア人から憎まれるかもしれない・・・

勝海舟 書生だの浪人だのという連中は、昔から絶えず俺のところへやってくるが、ときにはうるさいと思うこともある・・・

勝海舟 一時の感情に制せられず、冷ややかな頭をもって国家の利害を考え、群議を排して自分の信ずるところを行うと・・・

勝海舟 およそ世の中に、歴史というものほどむずかしいことはない。元来、人間の知恵は未来のことまで見通すことが・・・

勝海舟 佐久間象山は物知りだったよ。学問も博し、見識も多少持っていたよ。しかし、どうも法螺吹きで困るよ。あん・・・

勝海舟 いまの世の中は、実にこの誠というものが欠けている。政治とか経済と言って騒いでいる連中も、真に国家を憂・・・

勝海舟 あのときの談判(江戸城開城時の交渉)は、実に骨だったよ。官軍に西郷がいなければ、話はとてもまとまらな・・・

勝海舟 西郷は実に漠然たる男だった。この難局を俺の肩に投げかけておいて行ってしまった。「どうかよろしくお頼み・・・

勝海舟 坂本龍馬が、かつて俺に「先生はしばしば西郷の人物を賞せられるから、拙者も行って会ってくるにより添書(・・・

勝海舟 藤田東湖は、俺は大嫌いだ。あれは多少学問もあり、議論も強く、また剣術も達者で、ひとかど役に立ちそうな・・・

勝海舟 そやつが後先のことを考えてみているうちに、二・三百年も前に、ちょうど自分の意見と同じ意見を持っていた・・・

勝海舟 大きな人物というものは、そんなに早く現れるものではないよ。通例は百年の後だ。いま一層大きい人物になる・・・

勝海舟 俺もやっとのことで虎の口を逃れたが、岡田の早業には感心したよ。後日俺は岡田に向かって「君は人を殺すこ・・・

勝海舟 彰義隊の戦争の日だったが、官軍200人ばかり出て、俺の家を取り囲んで、武器などはいっさい奪い去ってし・・・

勝海舟 私はすでに門閥階級というものが、大いに国家進運を妨害するということを悟り得たから、その弊害を打破して・・・

勝海舟 俺もこの男の知遇にはほとほと感激して、いつかはそれに報いるだけのことはしようと思っていたのに、惜しい・・・

勝海舟 外国というものを、ドシドシ若手の連中に目撃させねばいかぬとと思ったから、大いに遊学生を奨励したが、そ・・・

勝海舟 俺が海舟という号を付けたのは、(佐久間)象山の書いた「海舟書屋」という額が良くできていたから、それで・・・

勝海舟 教師の名前はカッテンデーケ(ヴィレム・カッテンディーケ、オランダ海軍軍人)といったが、笑いながら「そ・・・

勝海舟 俺はそこで、もうだめだと思って大声で「自分が愚かで、教師の命令を用いなかったために諸君にまでこんな難・・・

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