主人の坂田芳松さんは昔かたぎの生粋の江戸っ子で、人情にも厚い人であった。私は社会の第一歩で、こうした人に会ったことは実に幸せなことで、何ものにも代えがたい収穫だった。逆境にあった私が、万一ここでも冷たい仕打ちをされていたら、果たしてどうであったろう。私は終生この主人から受けた情義を忘れることはできない。 - 早川徳次 - 前の名言 私たちの夢に関連のある超短波研究が偶然のよ... 次の名言 私は当年とって69歳になるが、日常会社勤め... 早川徳次のその他の名言・格言(全31件) 昭和24、5年の苦しさは私の骨身に徹した。こんなことは2度と繰り返したくない。普段からあらゆる場合に・・・ 社会に対してお返しもしない事業を持って、「事業は趣味ではない」などとは言ってもらいたくない。 かわいい社員のクビを切ってまで、自分は会社を存続させられない。社長を辞し、会社は解散する。社員を憂き・・・ 資本金の残金は材料設備費としてほとんどなくなってしまったから、あとはただ一も二もなく働くことだけであ・・・ 私は天災のためとはいえ、一度は東京の事業につまずきもした。また、血涙のにじむような経営苦にあえいだこ・・・ 職人たちは自分の技術を取り立てて後輩に教えるようなことはなかった。職人は長年の間に自然と仕事のコツを・・・ 事業が順調に進んでいったとすると、おそらく私はシャープペンシル製造に生涯をかけて金属文具界で終始し、・・・ 関東大震災に出くわしてぺしゃんこになった私は、それまでいい気になって強がっていた鼻っ柱がいっぺんにど・・・ 当時、外国ではすでにラジオは実用の段階に入っており、報道・娯楽の機関として不可欠の地位を占めていた。・・・ 昔、坂田さん(丁稚奉公先の工場)にいたとき、縁日の夜店でものを売って以来、シャープペンシルの外交など・・・ 早川徳次の全名言・格言を見る(全31件) 偉人の名前を姓名判断で見るとすごい結果に?!