私は38歳のとき、8ミリビデオテープを世に送り出しました。いま振り返るとあのころが技術屋としてのピークでした。それから職種が変わり、芸風が変わって、研究開発のマネジメントをはじめました。それまでは自分がエンジニアとして手掛けていた磁気記録とは異なる分野も手掛けることになりました。 - 中鉢良治 - 前の名言 42歳のとき、米国アラバマの工場に赴任する... 次の名言 40代というものは、人生でも大変なときで、... 中鉢良治のその他の名言・格言(全30件) ひとつの話題から連想を広げ、リンク先を探していくと、情報がどんどん連結していきます。知識とは、情報を・・・ 情報をリンクするためには、情報のストックが必要です。僕の場合は、気になった情報を手帳にすべて手書きで・・・ リンクし、拡張していくことの重要性は、個人だけではなく組織においても同様です。個人の才能が会社の財産・・・ 相手への好奇心を持ち、相手の持ち味も認めるだけの拡張性を持つことで、そこに新たな連結点が生まれる。個・・・ 大学院を卒業するとき、アカデミズムの世界に残るべきか、ビジネスの世界に進むべきかを悩んだ末、ソニーに・・・ 一流の技術者たちがひしめき合って、世界で一番を取るためにはどうしたらいいか、毎日活発に議論を戦わせ、・・・ ソニーには挑戦を許す文化があります。だから技術者も元気がよかった。それが、いつのまにかノビノビと楽し・・・ 僕は社長に就任したとき、社員と直にコミュニケーションをはかることに決めました。社内向けのブログを始め・・・ 会社のトップが社員ひとりひとりをきちんと見て、理解していると彼らに伝えたい。理解とは、評価よりも先に・・・ 昔はエンジニアたちの間で「上司の足音が肥やし」だなんて言われていたものです。僕自身、若いころは、上司・・・ 中鉢良治の全名言・格言を見る(全30件) 偉人の名前を姓名判断で見るとすごい結果に?!