植木義晴 植木義晴

京都府出身。父は昭和期の剣戟映画の大スターであった俳優の片岡千恵蔵で、千恵蔵が49歳の時に生まれた子である。5人きょうだいの4番目。実姉に女優の植木千恵がいる。1956年からの3年間、『黒田騒動』(1956)『赤穂浪士 天の巻 地の巻』(1956)『大菩薩峠 第二部』(1958)『大菩薩峠 完結篇』(1959)など子役としての映画出演もあるが、演技でうまく泣けなかったとき千恵蔵から叩かれたのをきっかけに映画出演をやめたという。慶應義塾大学法学部を1年で中退後、航空大学校に入学。1975年に航空大学校を卒業し、操縦士として日本航空に入社。1994年にDC-10機長となり、以後、17年間を機長として乗務した。2010年の日本航空の経営破綻後、当時の会長の稲盛和夫の下、同年に執行役員運航本部長に就任。2012年2月15日の臨時株主総会において取締役に選任され、その後開催された取締役会で代表取締役社長に就任した。「情の植木」と呼ばれて求心力があり、敵を作らない親分肌の人柄が評価されての起用だった。JALでは初となるパイロット出身の社長である。「パイロットのライセンスを持つ航空会社社長」としては、他にスカイマークの西久保愼一の例があるが「定期便のパイロット出身の社長」という意味では国内で初めての例となる。

『植木義晴』の名言・格言一覧(全55件)

植木義晴 私は後輩のパイロットたちに「最初の5年間は新しい知識をどんどん頭に入れなさい。5年たったら頭の中を整・・・

植木義晴 知識をそぎ落とすにはコツがあります。たくさんある知識の中から共通項を探し、自分なりの「ルール・オブ・・・・

植木義晴 パイロットは自然を相手にする仕事で、中でも最もフライトに影響するのが風です。そして、風と闘うパイロッ・・・

植木義晴 4年半前にパイロットから執行役員として経営陣に加わったときには、財務三表すら読めませんでした。本やネ・・・

植木義晴 僕がよく経営幹部に話すのは、「数字から数字をひねり出すな」ということです。あるロジックのもとに需要予・・・

植木義晴 厳しいリストラなどが控えているのに、会社を置き去りにして、自分だけ逃げていいのか。悩んだ末に、JAL・・・

植木義晴 運行部長になった途端、目の回るような忙しさとプレッシャーで、感傷に浸るヒマはありませんでした。どうや・・・

植木義晴 部門別採算制度はわりとスムーズに社内に浸透していきました。やはり業績が順調に上がっていったからでしょ・・・

植木義晴 いままでのJALであれば「フィロソフィ(哲学)」と言われてもバカにしていたでしょうが、破綻を経験し、・・・

植木義晴 厳しい合理化策を実施するときも、二度と会社は潰さないという信念は変わらないものの、心は揺れました。そ・・・

植木義晴 私は「会社を蘇らせる」という大義を背負うことで、迷いが吹っ切れました。

植木義晴 私が副操縦士によく言っていたのは、「十分な準備をしたうえで操縦席に座ったら、その瞬間に準備したことは・・・

植木義晴 雑音は気になりません。すべて自分の責任だと思っていますから。そもそも自信がなければ社長就任の話は受け・・・

植木義晴 最も避けなければならないのは、トラブル発生時に解決策を決められずに時間だけが過ぎてしまうことです。あ・・・

植木義晴 JALのフィロソフィーには、次のような一文があります。「楽観的に構想し、悲観的に計画し、楽観的に実行・・・

植木義晴 会社の経営破綻後に経営陣に加わってからの2年間は必死でした。どうやってこの会社を守っていくのか、どう・・・

植木義晴 私が心を砕いたのは、20人ほどのJALの経営陣を、経営再建に向けてどうやってひとつにまとめていくか。・・・

植木義晴 目標に向かって全員で協力して進んでいくためには、この会社が自分たちの会社であるという認識が不可欠です・・・

植木義晴 もっと自分たちの会社を好きになってほしい。自分たちの仕事に誇りを持てば、責任感も生まれ、一致団結して・・・

植木義晴 もちろん、憧れの気持ちから入ってもいいでしょう。パイロットになりたいとか、社長になりたいとか。しかし・・・

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